情熱の炎

本格的な休職が確定して、昼夜逆転は酷くなり、休日に友達や彼女と遊んだ。それ以外いったい何をして過ごしたのだろう。生産活動といえるような活動はほとんどしていない。資格勉強の指針を決めたくらいか。後部屋を掃除した。

ここのところ昼頃に起きる廃人と化していて、1日1日を粗雑に生きているから、あっという間に日常が過ぎる。PCの動きが悪いとか、録画したはずのアニメ(とある科学の超電磁砲)が録画されていないとか、些細なことでイライラする。順当に廃人の道を辿っている。

俺は大学受験という制度に反対している。論理的な他者を納得させるだけの理由は持ち合わせていない。それでも反対している。スポーツを題材にした物語も好きだし、恋愛話を聞くのは好きだ。それなりに感情移入することが出来る。でも受験を題材にしたテーマだけは全く感動を覚えない。だからなんだ、としか思わない。

それは感情的理由でしかない。自己中心的なのはわかっている。そして俺が努力とかそういうのから遠くなり、精神が受験に蝕まれたとすら思う。適応障害になったのは会社が悪いわけではない。受験制度が悪い、受験を頑張りすぎた自分が悪いと思う。本気でそう思っている。ただの異常者だ。

10代は膨大な時間を受験勉強に費やした。テストで良い点を取ることが自分のアイデンティティであり、生きがいだった。その割には結果は散々なものだった。労力に見合う対価は得られなかった。勉強は忌むべきものとして、僕の大学生活を蝕んだ。

大学時代はほとんど勉強はしなかった。兎に角ずっと喫煙所にいて、バイトばかりしていた。バイト先は飲食店だった。受験に対する無関係さが居心地の良さと同化した。就活も大して真面目にしなかったが、飲食店のアルバイトで培った機転を生かして卒業後すぐに就職活動をして、新卒から少し遅れて就職した。

大4の時就職はしなかった。理系だったので研究室に配属されてはいたが、ほとんど行っていなかった。最低限しか行かなかった。結果的に、目も当てられない研究結果を得て大学を卒業した。

大4の時は就職活動をしていたが、途中で心理学を学びたくなった。受験勉強には嫌気がさしていたが、心理学を学ぶためには乗り越えないといけない壁だった。というか退廃的に過ごした大学生活を振り返って、もう一度大学生活丸ごとやり直したくなった。

出世、結婚、出産、年収1千万、そのどれもの響きより、24歳になって心理学の大学に行き、本気で学びたい分野を学ぶことが魅力的に思えてきた。

自宅から通える国立大しか受験資格がなかったので、大学生活やアルバイトと両立しながら受験勉強をして受けた、落ちた。

わかりきっていた。持ち前の記憶力の高さを発揮してセンター試験こそA判定で突破したが、2次試験の記述は持ち前の応用力の無さを発揮してC判定やD判定だった。小論文は対策もしなかった。大学でレポートを書いてきたから特別対策しなくてもなんとかなるだろうという楽観視という甘えがあった。

受験に対しての拒否感故か無計画で突っ込んだが、センター試験では何故かA判定の得点を出した。模試でもA判定とB判定をウロウロしていた。模試では地理Bで受験したのを本番では地理Aで受験した。正直地理Bをそれなりに勉強していた人からすれば、地理Aで高得点を取ることは容易だ。その分点数も判定も上がった。それだけのことだ。ここでも計画性のなさの兆候が読み取れるが、ここに関しては特にダメージは受けなかった

計画性のなさが完全に露呈したのは二次試験のことだった。当時のメモ帳を読み返すと試験科目を決めたのは、1月24日のことだった。受験した大学は英語と小論文か数学と化学で受けられる。

英語と小論文で受験することに決めた。化学があまりにも解ける気がしなかったからだ。遅い、遅すぎる。

結局センター試験の勉強しかしていなかったのが大きな原因だった。それだけのことだ。僕は計画性がない。無計画だ

社会生活が始まっても計画を立てる習慣がなかったから、SEとしての業務を行う上でタイムスケジュールを立てるのが苦手だ。それは業務だけじゃなく日々の生活を送る上で全てに関して当てはまる。

学生時代の思い出(中学生編①)

  学生時代の思い出でも書いてみようと思い、記事にしてみた。拙い文章にはなると思うが、なるべく的確で伝わりやすい言葉選びを心掛けて、記事にしようと思う。

 

 中学は地元の公立中学だった。クラスメイトは40人程、男女比約半々の計6クラス。部活は陸上部に所属していた。小学生の頃は少年野球をしていたが、中学校の野球部は弱小かつ不良と呼ばれる生徒が多く、幾ばくかの恐怖感を抱いたためか、小学生の頃から仲が良かった友達に誘われて、陸上部に入部した。

 

 成績は自分で言うのもなんだけど、良い方だった。家がわりと教育熱心な家庭だったので、羽目を外すことは難しかったし、当時はテスト期間は計画的に勉強していたし、たまたま仲が良かった友達が、勉強や部活に熱心な人が多かったので、時に励まし合いながら、わりと高成績をキープしていた。それでも、飛びぬけて成績が良い、というわけではなかった。

 

 運動神経は少年野球をやっていたの体力はあったし、悪い方ではなかったが、身体が小さかったこともあり(中学2年生まで身長が150cmを超えなかった)、特別良いわけでもなかった。

 

 部活には熱心ではなかった。別にやりたい部活にはテニスがあったが、テニス部はなかったので、かといって帰宅部になる勇気もなかったので、何となく友達に誘われて陸上部に入部した。練習には毎日行っていたが、特に自主練などしたこともなかった。部活は強い方でも弱い方でもなかったと記憶している。

 

 友達はいないわけでもなかったので、休日はよく友達と遊んでいた。草野球をしたり、僕の家や友達の家でゲームをしたり、でも特別何かに挑戦したわけでもないので、深い思い入れがあるわけでもない。

 

 恋愛に関しては、当時一人だけ彼女がいた。でも、当時は恋愛とかよくわからなかったし、まだ友達と遊んでいる方が楽しかった年頃ということもあり、上手くいかなくてあっさり別れた。後に大学時代に彼女に振られて、視界が真っ白になったこともあるが当時は失恋してもわりとあっさりしていたと記憶している。

 

 

会社を休職した

 1/6(月)に会社に出社しようとするも、身体の震えが止まらず、上長に連絡し、会社を休んだ。

 1/8(水)心配してくださった先輩に呼ばれて、会社で1時間面談をすることになる。そして僕は事実を全て赤裸々に話した。

 1か月の休職の診断が出ていること(適応障害のため)

 6日、7日に出社出来なかった理由は身体の震えと吐き気が止まらなかったため

 その後、総務の方と話をし、会社でも自分のために色々と話し合いの機会を設けて下さった結果、1か月間(2/5(水))まで休職することが決まった。

 病院から診断が下っている人間を働かせることは出来ない、という会社の判断だった。

 待ってくださっていることは非常にありがたい。クビになっても仕方がないと思っていたからだ。新卒で、いきなり病気になり、大した利益も生み出さない自分という存在である。

 もどかしい気持ちは多々あるが、この期間にやるべきことが決まった。

 適応障害など精神的な病気を再発させないために、メンタルヘルスの学習をする。

 必ず病気を治して復職し、仕事を覚えて、こなせるようになり、会社に利益を生み出せるように精進する。

 思えば、何の取り柄も実績もない中途半端な時期に面接を受けた自分を、採用してくださった会社である。このまま終わりにしたいとは到底思えない。これが所謂ブラック企業だったら、黙ってバックレていた可能性もあるが、現実問題今の会社がブラック企業だとは言い切れない。

 理不尽に怒鳴られたり殴られたりするわけでもない。

 残業代が支払われないわけでもない。

 残業を減らす動きを見せており、理不尽で無意味な残業の強要があるわけでもない。

 適応障害になったことに対して、精神的に弱いからそうなったとか、真面目すぎるからそうなった、といった様なパワハラを受けたわけでもない。

 

 

 

泣いたって前に進むんだ

人生一度しかないから、悔いなく生きたい


低空飛行の人生を生きながら、僕はそう思う

いや、最近は毎日のように言い聞かせている


具体的な指針として

2月に乙四の試験を合格する

4月から心理学通信大学に入学する


スマホで不用意な記事(2ch、なんでも実況j)をダラダラ見るという非生産な時間を0にする。ゲームする方がマシ。


書きたいことがある時はブログを書いて、記事にする。アウトプットの練習にもなる。日々の自分の感情の変遷を辿ることが出来る


才能の限界を知った浪人生活、無気力無勉強だった工学部の生活、世間体を維持することしか出来なかった、5年間の月日。薄っぺらい人生。


悔しい、虚しい、だからこそ守りに入らず攻めていく人生にする。


どうせ人はいつか死ぬ。ならば華々しく散ってしまいたい。

心理学への想い

2020年が始まった。僕は決意を固めた。今日は焼き肉を食べる。焼き肉を食べたら、自分に課した決断を下す。

 

どうしても心理学の勉強がしたい。人間ひいては動物の心理への関心が止まらない。特別な知識はない。4月から通信制の大学に行く。

 

大学では工学部専攻だった。やる気はなかったのでほとんど僕は勉強をしなかった。底辺の成績で卒業した。教授には反発ばかりしていた。卒業式も出なかった。社会に出たら何か変わるのかと期待した。しかし、何も変わらなかった。自分から働きかけないと何も起きないことを学んだ1年だった。

 

心理学を学びたい理由を論理的に説明するのは難しい。就きたい職業が明確にあるわけでもない。ただ、心理学をどうしても勉強したいのだ。人生一度しかないから、自分のやりたいことをやって、好きなように生きたいのが僕の想いだ。

 

僕は元々希死観念があった。自殺願望もあった。死にたいというよりは消えたいと何度となく思った。明日死んでも何も思わないしそれでいい、と大学時代から幾度となく友達に口にしてきた。しかし、今の僕は自殺願望はない。

 

心理学を学び、課程を修了するまでは、死にたくはないからだ。死んだら何も学べない。そのことが生存本能を駆り立てる。

 

現状入学までは3か月ある。何か資格勉強でもしようかな

 

 

人生の岐路(自己紹介も兼ねて)

24歳、新卒SE(システムエンジニア)、彼女持ち

 

大体の今の自分のスペックである。仕事辞めたい。でも辞めたくない。人間の感情が一方向にしか動かないものとしたら、矛盾を生み出している。ある理由では仕事を辞めたいし、またある理由では仕事を辞めたくない。そう考えると、今の僕の仕事への感情は二方向の矢印のように揺れ動いている。年末年始の休暇を終えて、後3日で出社の日が迫る。出社したくない。

 

会社はブラックではないし、先輩がパワハラしてくるわけでもない。でも、SEという職業への適性が皆無で、論理的思考と説明力がなくて、取引先を何度も困惑させ、適応障害を発症した。という現実がある。

 

主治医は僕に言った。「あなたは適応障害うつ状態です。13日にまた病院に来てください。それまで仕事が行きたくないと思うのであれば、診断書を切るので、いつでも病院に来てください」12/25日の夜、僕は主治医に現状を説明した結果、このような宣告を受けた。宣告を受けたとき、ほっとした。会社にこれで行かなくていい。当分仕事を休むだけの権利を得た。どうせなら明日にでも病院に行って早いところ、診断を切ってもらおうか。という考えもあった。

 

しかし、休むかどうか悩みかねていたのも束の間、家の棚から5kgのダンベルを落として、怪我をした。激痛が走る。とりあえず足を怪我して、歩行が困難なのと、病院にて適応障害の診断を受けたので、26日と27日は休みます。と上長に連絡した。精神科には足の怪我がひどいため、行けなくなった。

 

上長から心配している、6日から出社可能か、という連絡が来た。翌日26日のことだった。僕は父親に車を運転してもらい、病院に行き、中指にヒビが入ってるレントゲン写真を確認し、痛み止めを処方してもらい、すぐさま連絡を入れた。

 

1/6の出社については現状保留としている。正直、適応障害にはなったことがないので、対処法がわからない。どうすればいいのかわからない。出社だけなら可能かもしれない。しかし、これまでの僕の経過を考えると、適応障害うつ状態という診断を受けたことに関して、自分でも納得する。

 

 

小説 タイトル:僕は一体何者だ⑤

十勝倍也は亮介に「送ってくれてありがとう、じゃあ、また明日。」と告げた後、バイト先の飲食店に向かった。バイト先は歩いて15分ほどの距離にある。時刻は午後18時20分。今日のシフトは19時から23時までだったので、少しだけ時間がある。時間を潰そうと思い、喫煙スペースへと足取りを動かし、喫煙スペースに到着した後、愛煙しているParamentに火をつけた。スマホでLINEを確認する。美由紀に送ったLINEの既読はまだついていない。「合コンのメンバー集まりそう?」と朝に送ってから、既読がまだついていない。学校が忙しいのだろう。美由紀は部活もしているから、暇人の倍也と違い、大学生活が忙しい。

 

月曜日の今日、倍也は少しだけ、バイトに向かう足取りが軽い。今日一緒にシフト入る相沢さんが可愛くて気になっている、からではなくバイトリーダーは毎週月曜日に休みを取っているため居ないからだ。倍也はバイトリーダーのことが苦手だ。理由はバイトのミスに対して怒鳴るからである。また、自分は論理的な性格だと自称しておきながら、機嫌が良い日と悪い日の差が激しく、自分の内なる感情である機嫌の良し悪しに流される矛盾性と精神力の弱さにもウンザリさせられている。

 

バイトリーダーの中里雄二は、難関国立大学卒業後、弁護士になるという夢を追い、飲食店でアルバイトをしながら、弁護士という夢を追っている。38歳になった今も、司法試験の勉強をしながら、アルバイトをしている。バイトのユニフォームもロクすっぽ洗濯をせず、シワでよれよれになり、丸々太った中里の後ろ姿を見ていると、倍也はリスクを負って夢を追いかけることの怖さを感じずにはいられない。倍也は大学を退学して興味のある専攻である、心理学部のある大学への再受験を頭の中では、画策しているが、中里のそんな後ろ姿が、倍也の決断力を弱めている一因であることは否めない。

 

倍也は愛煙しているParamentの火を消しながら、いつもよりほんの少し軽い足取りで、バイト先へと向かうのであった。時刻は18時半である。

 

愛煙しているParamentの火を消しながら、いつもよりほんの少しだけ軽い足取りで、倍也はバイト先の飲食店へと向かうのであった。